マティエ殺人事件

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――消えた七番ブースの秘密――

大阪・日本橋。

アニメショップのネオンが雨ににじみ、オタロードを行き交う人々の傘が、夜の街を色とりどりに埋めていた。

その一角にある添い寝リフレ店「マティエ」では、月に一度の店内撮影会が行われていた。

閉店後、キャストたちは翌月のホームページに使う写真を撮影し、店長は受付でパソコンとにらめっこをしていた。

店内にいるのは、六人。

店長の「いち」。

三年目のベテランキャストで、穏やかな観察力を持つ「すい」。

明るくおしゃべりな「まい」。

少し怖がりで、いつも何かを食べている「ゆあ」。

新人で真面目な「れん」。

そして――今夜、死体となって発見される「なゆ」。

午後十一時四十分。

撮影を終えたなゆは、白いパジャマ姿のまま、七番ブースへ向かった。

「ちょっとだけ休憩してくるね」

それが、全員が聞いたなゆの最後の言葉だった。

七番ブースは、店のいちばん奥にある個室である。

白いカーテンで仕切られ、灰色のマットレスと枕だけが置かれている。

特別な設備はない。

しかし、その夜だけは違った。

午前零時十分。

店内の照明が、突然すべて消えた。

「きゃっ!」

ゆあの悲鳴が響く。

「停電?」

「いや、このビルだけみたいやな」

店長いちが受付の奥から懐中電灯を取り出した。

その明かりに照らされた顔は、いつもの笑顔とは違い、妙にこわばっていた。

停電はわずか三分で復旧した。

だが、その三分がすべてを変えた。

「なゆちゃん、まだ休んでるのかな」

まいが七番ブースのカーテンを開けた。

次の瞬間、店内に悲鳴が響いた。

マットレスの上に、なゆが横たわっていた。

白いパジャマの胸元には、赤い染みが広がっている。

右手には、小さな銀色の鍵が握られていた。

枕元には、割れたティーカップ。

そして壁には、黒いマーカーで一文字だけ書かれていた。

「7」

なゆは、動かなかった。

「う、嘘……」

ゆあが口元を押さえる。

れんはその場にへたり込んだ。

店長いちは、顔面を蒼白にしながら言った。

「警察を呼ぶ。誰もここから動くな」

だが、その時。

すいだけは、死体ではなく床を見ていた。

七番ブースの入口。

灰色のマットレス。

割れたカップ。

そして、なゆの足元に落ちた、ほんの小さなピンク色の糸。

すいはゆっくりと顔を上げた。

「警察が来るまでに、確認したいことがあります」

「すいちゃん?」

「なゆちゃんを殺した犯人は、この店の中にいます」

空気が凍った。

店長いちが声を荒らげた。

「何を言ってるんや。外から誰か入った可能性もあるやろ!」

「ありません」

すいは即答した。

「入口の防犯カメラは停電直前まで動いていました。午後十一時以降、誰も出入りしていません。それに、裏口の鍵は店長が持っています」

全員の視線が、店長いちの腰元に向いた。

そこには、鍵が三本ぶら下がっていた。

受付。

倉庫。

裏口。

「俺を疑ってるんか?」

「まだ誰も疑っていません。ただ、犯人が店内にいると言っただけです」

すいは、なゆの右手に握られた銀色の鍵を見た。

「まず、この鍵が何なのか」

れんが小さな声で答えた。

「衣装ロッカーの鍵です。番号は……七番」

「壁の“7”と同じですね」

まいが震えながら言った。

「じゃあ、なゆちゃんは犯人の名前じゃなくて、七番ロッカーを示したの?」

「そう考えるのが自然です」

店長いちは、受付裏のロッカールームへ向かった。

「開けてみよう」

七番ロッカーの扉に鍵を差し込む。

カチリ。

中に入っていたのは、黒い封筒だった。

封筒の表には赤い字で、

『マティエの秘密』

と書かれていた。

中には一枚の紙。

店の売上表のコピーだった。

その一部に、不自然な修正跡がある。

売上金額が、毎月少しずつ消えている。

合計は百二十万円。

ゆあが目を見開いた。

「これ、横領ってこと……?」

店長いちは紙を奪い取った。

「違う! これは経理上の調整や!」

「どうしてそんなものを、なゆちゃんが持っていたんでしょう」

すいの声は静かだった。

店長は答えなかった。

まいが呟く。

「なゆちゃん、最近ずっと店長と話してたよね」

「それは……」

「昨日も言ってた。『店長に確認したいことがある』って」

空気が変わった。

全員の疑いが、一気に店長へ向かう。

だが、すいは首を横に振った。

「まだ早いです」

「でも、証拠が……」

「証拠が、あまりにもわかりやすすぎます」

すいは黒い封筒を手に取った。

「犯人が本当に売上の不正を隠したいなら、なぜ鍵をなゆちゃんに握らせたのでしょう。七番ロッカーを調べてください、と言っているようなものです」

れんが息をのんだ。

「店長を犯人に見せるため……?」

「その可能性があります」

店長いちは、かすかに息を吐いた。

しかし、すいの視線は店長から外れなかった。

「店長。停電が起きた時、どこにいましたか?」

「受付や。パソコン触ってた」

「誰か見ていましたか?」

「一人やった」

「停電の直前、受付のブレーカーを確認した人は?」

「俺だけや」

「では、店長には停電を起こすことができた」

再び沈黙。

店長いちの額に汗が浮かんだ。

「すいちゃん、言ってることが矛盾してるで。俺を疑ってへんのか、疑ってるのか、どっちや」

「どちらでもありません」

すいは七番ブースへ戻った。

「私は、事実を見ています」

なゆの体のそばにしゃがみ込む。

そして、割れたティーカップの破片を拾った。

「このカップ、店のものじゃありませんね」

まいが答えた。

「うん。店のカップは白地にピンクのロゴ。でもこれは青い線が入ってる」

「誰のもの?」

ゆあが恐る恐る手を上げた。

「わ、私です。お昼に持ってきました。でも、なゆちゃんが貸してって……」

すいはカップの内側を見た。

微かに甘い匂いがする。

「紅茶ではありません。ミルクティーです」

「それが何か?」

店長いちが聞く。

「なゆちゃんは乳製品が苦手です。以前、カフェラテを一口飲んだだけで気分が悪くなったことがありました」

まいが頷く。

「そうそう。絶対にミルク入れないって言ってた」

「では、なゆちゃんが自分で飲むために、このミルクティーを用意したとは考えにくい」

すいは割れたカップの位置を指さした。

「しかもカップは、なゆちゃんの左側で割れています。けれど、なゆちゃんは右利きです」

れんが口を開いた。

「誰かが置いた……?」

「おそらく」

すいは床に落ちていたピンク色の糸を摘んだ。

「そして、この糸」

それは、ほんの二センチほどの細い繊維だった。

「店内のカーテンと同じ色に見えますが、違います。カーテンはポリエステル。この糸は綿です」

まいが自分の衣装を見る。

ピンク。

ゆあの衣装もピンク。

れんも、なゆも、全員が撮影用の衣装を着ていた。

「衣装の糸?」

「そうです。でも、誰のものかはまだわかりません」

その時、すいは七番ブースの壁に書かれた「7」をじっと見た。

「この数字、おかしい」

「何が?」

「なゆちゃんが書いたなら、もっと低い位置になるはずです」

数字は床から約一メートル四十センチの高さに書かれていた。

横たわった状態で手を伸ばしても届かない。

「つまり、これも犯人が書いた」

「じゃあ、全部が偽装……」

ゆあの声が震えた。

「なゆちゃんが残した本当の手がかりは、ないんですか?」

すいは、なゆの手を見た。

握られていた銀色の鍵。

「あります」

鍵の表面に、薄く白い粉が付着していた。

「これは……フェイスパウダー?」

れんが覗き込む。

「違います」

すいは指で触れ、匂いを確かめた。

「小麦粉です」

「小麦粉?」

全員が顔を見合わせた。

小麦粉が付くような場所。

店内には一つしかない。

スタッフルームの奥にある、小さなキッチン。

撮影後に食べるため、店長がたこ焼きを作っていた場所だった。

「店長……」

まいの声が低くなる。

「今日、たこ焼き作ってたよね」

「だから何や。小麦粉なんて、誰にでも付くやろ」

店長いちは強く言い返した。

すいは受付へ向かった。

キッチンには、使いかけのたこ焼き粉。

ボウル。

ソース。

そして、床に落ちた一枚のレシート。

午後十時三分。

近所のコンビニで、使い捨て手袋と黒いマーカーを購入している。

購入者の会員番号は、店長のものだった。

「黒いマーカー……壁の文字と同じ」

ゆあが呟く。

店長いちはついに声を荒らげた。

「撮影用の備品や! そんなもの、証拠にならん!」

「そうですね。これだけでは証拠になりません」

すいは、店長の顔を真っ直ぐ見た。

「ですが、店長。あなたはさっき、大きな嘘をつきました」

「嘘?」

「停電の時、受付にいたと言いましたね」

「ああ」

「停電した時、受付のパソコンはバッテリーに切り替わります。画面は消えません」

すいはパソコンを開いた。

画面には、店内管理ソフトの操作履歴が残っていた。

午前零時九分。

七番ブースの呼び出しボタンが、手動で無効化されている。

その操作は受付のパソコンからではなく、店長のスマートフォンから行われていた。

「呼び出しボタンを無効にできるのは、店長だけです」

「それだけで俺が殺したことには――」

「まだあります」

すいはスマートフォンを取り出し、音声を再生した。

ノイズの向こうに、なゆの声が聞こえる。

『店長、どうしてこんなことを……』

そして、男の声。

『黙ってくれたら、全部戻すつもりやった』

店長いちの顔から血の気が引いた。

「な、なんで……」

「なゆちゃんが録音していたんです。七番ブースの枕元に、スマートフォンが落ちていました。停電後、誰かが画面を踏んで壊したようですが、クラウドに音声が残っていました」

「そんな……」

全員が息を呑む。

だが、録音は続いていた。

『店長、これ以上は無理です。みんなに話します』

『待ってくれ!』

物音。

カップが割れる音。

そして、なゆの短い悲鳴。

録音はそこで終わった。

店長いちは、その場に崩れ落ちた。

「違う……殺すつもりはなかった」

涙が床に落ちる。

「コンカフェに通いすぎて、借金が膨らんだ。最初は少し借りるだけやった。次の月に戻すつもりやった。でも、戻せんかった」

誰も言葉を発さない。

「なゆちゃんにバレて、話し合おうとした。ミルクティーに睡眠薬を入れて、少し眠ってもらって、その間に証拠を消そうと思っただけや」

すいの眉が動いた。

「睡眠薬?」

「そうや……でも、なゆちゃんは飲まなかった。カップを叩き落として、逃げようとした。俺が腕を掴んだら、転んで……壁の角に頭を……」

店長は両手で顔を覆った。

「怖くなった。停電を起こして、七番ロッカーに証拠を入れて、誰かが俺を陥れたように見せようとした」

まいが震える声で聞いた。

「でも、店長を犯人に見せる証拠ばかりだったよね」

「逆や」

すいが答えた。

「店長は、証拠をわざと自分に集中させたんです」

「どういうこと?」

「犯人が店長を陥れようとしている。そう思わせるために」

れんが息をのむ。

「証拠がわかりやすすぎるから、逆に店長は犯人じゃないと思わせる……」

「そうです。二重の偽装です」

店長いちは、かすかに笑った。

「さすが、すいちゃんや。そこまで見抜くとはな」

しかし、すいは首を横に振った。

「いいえ。まだ終わっていません」

「え?」

「店長は今、“なゆちゃんが転んで頭を打った”と言いました」

全員が、なゆの体を見る。

胸元の赤い染み。

だが頭部には、目立った外傷がない。

「なゆちゃんの死因は、頭を打ったことではありません」

すいは、胸元の染みに指を触れた。

「これは血ではありません。撮影用の赤いシロップです」

まいが叫んだ。

「えっ?」

次の瞬間。

横たわっていたなゆが、突然起き上がった。

「いたた……ずっと寝てるの、腰にくるね」

「なゆちゃん!?」

店内に悲鳴と怒号が飛び交う。

ゆあは泣きながらなゆに抱きついた。

れんは腰を抜かしたまま動けない。

店長いちは、口を開けたまま固まっていた。

「な、なんで……生きて……」

なゆは胸元の赤いシロップを拭いた。

「すいちゃんと一緒に考えたんです。店長が売上を抜いている証拠はあった。でも、普通に問い詰めたら逃げられると思って」

すいが続ける。

「だから、殺人事件を演出しました」

「全部……芝居?」

「停電も、録音も、七番ロッカーも、計画の一部です」

まいが呆然とする。

「じゃあ、店長がなゆちゃんを殺そうとした話は……」

「半分は店長自身が作った嘘です」

すいは店長を見る。

「本当は睡眠薬もありません。転倒事故もありません。店長は、殺人未遂を認めれば、横領について同情されると思った。事故だったと言えば、罪が軽くなると考えた」

店長の顔がゆがむ。

「なぜ……」

「あなたは、自分が本当に殺人犯だと思い込んだわけではありません。死んだふりだと気づいていました」

「何を根拠に!」

「なゆちゃんの胸の赤い染みです」

すいは淡々と言った。

「店長は元調理師です。血とイチゴシロップの違いを、匂いで判断できるはずです。それなのに、なゆちゃんを見た瞬間、“死んでいる”と決めつけた」

店長は黙った。

「さらに、なゆちゃんの手を確認しなかった。呼吸も脈も確かめなかった。最初から“死体役”だと知っていたからです」

「じゃあ、店長はいつ気づいたの?」

ゆあが聞いた。

「停電前です。七番ブースのカーテンの隙間から、準備しているところを見たのでしょう」

すいは床のピンク色の糸を示した。

「あの糸は店長の服に付いていた、カーテン装飾の繊維です。店長は七番ブースを覗き、計画を知った。その上で、計画に乗ったんです」

なゆが続ける。

「店長は自分が疑われた時、横領以外の罪を作ろうとした。殺人未遂の告白をして、全部を“事故とパニックの結果”に見せようとした」

「どうしてそんなことを?」

「本当の横領額は百二十万円じゃないからです」

すいが黒い封筒から、もう一枚の紙を取り出した。

隠されていた帳簿。

総額、八百四十万円。

全員が言葉を失った。

「百二十万円の横領を認め、精神的に追い詰められていたと主張する。その代わり、残りの七百二十万円を隠す。店長の本当の狙いはそれでした」

店長いちは、しばらく俯いていた。

やがて、乾いた笑い声を上げた。

「完敗やな」

その笑顔には、いつもの親しみやすさはなかった。

「いつから気づいてた?」

「店長が最初に言った言葉です」

すいは答えた。

「『誰もここから動くな』」

「それが?」

「店長は七番ブースを一度も確認していないのに、事件だとわかっていた。普通なら最初に救急車を呼ぶか、脈を確認するはずです。それなのに、あなたは現場保存を優先した」

すいは静かに目を細めた。

「殺人事件の形を守りたかったからです」

遠くでパトカーの音が近づいてくる。

雨はまだ降っている。

店長いちは受付の椅子に座り、両手を膝の上に置いた。

「なゆちゃん」

「はい」

「ごめんな」

なゆはしばらく店長を見つめた。

「謝る相手は、私だけじゃないですよ」

店長は何も言わなかった。

警察が到着し、店内に足音が響く。

連行される直前、店長いちは振り返った。

「すいちゃん。最後に一つだけ聞いていいか」

「何ですか?」

「俺が死体が偽物やと気づいてることまで、最初から読んでた?」

すいは少しだけ笑った。

「いいえ」

「え?」

「店長が赤いシロップを見て、一瞬だけ鼻を動かしたので気づきました」

店長は目を丸くした。

すいは言った。

「真実は、いつも大きな証拠の中にあるわけじゃありません」

七番ブースのカーテンが、エアコンの風でかすかに揺れる。

「何気ない仕草や、言葉の選び方。そこに、その人が隠したかった本音が出るんです」

店長いちは苦笑した。

「やっぱり、すいちゃんにはかなわんな」

翌朝。

事件の痕跡が片づけられたマティエに、朝日が差し込んでいた。

なゆは七番ブースのマットレスに座り、腰をさすっていた。

「死体役、もう二度とやりたくない」

「でも迫真の演技だったよ」

まいが笑う。

ゆあは袋菓子を食べながら言った。

「私、本当に泣いたんだけど」

れんは青い顔のままだった。

「私は三年くらい寿命縮みました」

すいは、割れたティーカップの代わりに新しいカップを机に置いた。

「これで一件落着ですね」

なゆが首を傾げる。

「でも、すいちゃん。一つだけわからない」

「何?」

「壁に書いた“7”って、結局どういう意味だったの?」

全員が、すいを見る。

すいは数秒黙った。

「七番ロッカーを見て、という意味です」

「それだけ?」

「それだけです」

まいが吹き出した。

「伏線っぽく見せて、普通!」

ゆあも笑う。

れんもようやく肩の力を抜いた。

なゆはため息をついた。

「名探偵って、全部に深い意味を持たせるわけじゃないんだね」

すいは新しい紅茶を一口飲んだ。

「現実は、意外とそんなものです」

その時、受付の電話が鳴った。

まいが受話器を取る。

「はい、マティエです」

数秒後、まいの表情が固まった。

「え……?」

全員が振り向く。

「どうしたの?」

まいは、ゆっくり受話器を置いた。

「警察から」

「何て?」

「店長が持ってたスマホから、知らない人の指紋が出たって」

空気が再び凍る。

すいの目が細くなる。

「知らない人?」

まいは青ざめたまま頷いた。

「しかも、その人……三年前に死んでるらしい」

静かな店内に、エアコンの音だけが響いた。

すいは七番ブースを振り返った。

カーテンの向こう。

誰もいないはずのマットレスが、わずかに沈んだように見えた。

――マティエ殺人事件。

それは、まだ終わっていなかった。

実在の人物・店舗とは無関係の完全なフィクションです。
実際のキャストの人物像や関係性を示すものではありません。

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